川崎市麻生区の心療内科・精神科|新百合ケ丘こころのクリニック|家族、友人、同僚などの人間関係で悩んでいる

家族、友人、同僚などの人間関係で悩んでいる

家族、友人、同僚などの人間関係で悩んでいる

「とかくに人の世は住みにくい」と書いたのは漱石です(『草枕』)。彼が代表作『こころ』で描いたのは、ごく身近で濃密な人間関係の中で起きる息が詰まるような確執です。
抑うつであれ、不安であれ、お話を詳しくうかがうと、その発端には学校や、職場など、そのかたの属している集団での人間関係のあつれきが関わっているものです。
昨今、抑うつも、不安も、それに関わる脳の部位や神経物質ばかりが語られてきた気がします。
しかし抑うつや不安といった悩みをよくお聴きすると、そこにひととひととの関わりが深く刻みこまれていることが感じられます。
そしてまた、思うようにならないのもこの人間関係です。

人間関係が思うようにならないのは、なんといってもそこで関わっているのが他者だからです。他者は私ではありません。私の思い通りにはなりません。
期待、思いが届かないのはつらいことです。それどころか、私に苦しみを与えることもあります。いじめはその最たるものでしょう。また癒えないこころの傷を与えられることもあります。
昔と比べるのは難しいですが、家庭、学校、職場、そして親しい友人関係でさえ、どこかひどくゆとりが失われているようです。
学校も、職場も、基本的には閉ざされた場所です。余裕が失われ、閉ざされた場所の中でのあつれきは、とことんひとを窒息させ、苦しめるでしょう。

何かと「行きづまっている」今のこの国では、とにかく「改革」「効率化」が叫ばれます。
それは一見素晴らしいようですが、改革の時代はものの質とゆとりと人間性をそぎ落とす時代です。
この中でひとの「居場所」は「組織」と化していきます。それも病的な「組織」です。
ひとはこの「組織」の中で「もの」として使われ、支配され、閉じ込められ、とどまるも地獄、逃げ出すも地獄、ということになりかねません。
それがどれほどひとのこころを疲弊させるかわかりません。

こういう社会では、家庭もまたゆとりを持ちにくく、お父さんもお母さんも、「家庭」を維持し、こどもを育てるのは本当に大変です。
「家庭」の中で、ひとは安心を得て、こころを育み、生きる力と意味を見出すことができます。
しかし理想的な「家庭」などあり得ません。こどもも親も、いろいろな思いを抱え、成長していきます。
そのひとの「ひととなり」とは、そのひとが親をはじめ、どのようなひとと、どのように関わってきて、そのひとと成っていったか、ということにほかなりません。
それはまた、いろいろなつらい体験と折りあいをつけるために出来上がったものでもあります。その折りあいのつけ方に無理があれば、今の人間関係でかえってつらい思いを強いられることになるかもしれません。

ですから、そのひとのひととなりには、それまで体験してきたさまざまな人間関係が刻み込まれています。それは夢に現れます。
夢を見ると、いろいろなひとが出てきますね。そのなかには知った人も知らない人もいますが、知っているひとも、夢の中では現実のそのひとといささか違っていたりします。

つまりひとの「こころ」の中にも、いろいろなひとが住んでいるのです。
それは、そとのひととは少し違っていて、いろいろな感情を抱えながら、お互いに、あるいは私と複雑に関わりあっています。
このこころの中のひとと私の関わりあいが、そのひとのひととなりに決定的な影響を与えるのです。
こうして、ひとはこころの外のひとと同時に、こころの中のひとと関わって生きています。
それをより深く体験し、知るほど、ひとは少し自由になれるのかもしれません。